大阪・豊中の高1男子自殺:遺族手記2 祐太朗がいなくなった日

■祐太朗がいなくなった日 07年2月26日  

 まず最初に、自殺した私たちの子供について紹介します。

 名前 岸祐太朗

 趣味 鉄道、ミリタリー、マンガ・アニメ

 特技 クラシックバレエ、中国語

 祐太朗がいなくなったのは、2007年2月26日のことでした。私(お母さん)が午後6時半ごろ、仕事から帰ってきたら祐太朗はまだ帰っていなかったので、携帯に電話しました。しかし、呼び出し音のしない、つながらない状態でした。少し不安を感じながらそのまま夕食の支度などをしていましたが、8時になっても9時になっても帰ってきません。携帯もあいかわらずつながらないままです。今まで帰りが遅くなるときはたいてい連絡をくれていたので、不安がますますつのります。いてもたってもいられません。ふと先週彼の帰りが遅くなった理由を思い出しました。「放送室で眠ってしまっていた」。彼は放送部だったので、放課後は放送室によくいました。ひょっとしたら、と思い、彼の高校に連絡することにしました。9時半ごろのことです。まだ先生が残業で残っておられたら、と思ったのですが、学校の電話は留守番電話になっていました。先生が聞いてくださることを期待して、メッセージを残し、担任の先生のパソコンメールにも連絡しましたが、返事は来ませんでした。10時を過ぎましたが帰ってきません。クラシックバレエのレッスン以外の日はこんなに遅くなったことはないので、警察に捜索願を出すことにしました。

 携帯はつながらないし、もしかしたらそこに残っているかもしれない学校とも連絡がとれない、最悪のことが頭をよぎり、足がガクガクふるえましたが、まだこの時は自殺しているとは思ってもいませんでした。なにか事故があったのではないかと考えていました。仕事から帰ってきたお父さんと「とにかく落ち着こう」とお互いに言いました。

 捜索願を出すなんて初めてのことだったので、とりあえずお父さんといっしょに近所の交番に行きました。警官はパトロール中でいなくて、交番の中の電話でどうしたらいいのかを聞きました。写真を持って警察署の方まで来て下さいとのことでした。一度家に帰って写真を探し、警察署まで行きました。倉庫のようなせまい部屋でいろいろ聞かれました。警察の人は家出を疑っているような口ぶりでしたが、家出なんか一度もしたことがないし、する理由も見あたりません。

 「学校の放送室に残っている可能性があるので、何とか探してもらえませんか」

と、お願いしました。それと、携帯電話が出している電波から今いる場所を調べてほしいともたのみました。しばらく待った後、学校の周辺を担当する警察から、祐太朗の高校の先生と連絡が取れたが、校内は誰か人がいたら警備システムが作動してすぐに分かるとのことで誰もいないとの返事が返ってきました。警察と先生が学校の中に入って探してくれるものとばかり思っていたので、それは信じられない返事でした。しかたがないので家に帰って、警察からの連絡を待つことにしました。家に帰ると午前0時半を過ぎていました。ひょっとしたら帰っているかもしれないというわずかな希望を持っていましたが、やはり帰っていませんでした。

 つらいつらい夜の始まりでした。だいじな子供がいないのです。生きているか死んでいるかも分からないのです。でも、学校の門が開くまで探すことすらできないのです。ひたすら朝がくるのを待ちました。午前2時過ぎに警察から電話がありました。携帯電話の電波は昨日の午後4時頃途絶えていて、やはり学校周辺から出ているとのことでした。学校の近くを警察官が捜索してくれていると聞いて、とてもありがたく感じました。

■発見・再会 2月27日

 待ちに待った朝がやってきました。午前6時過ぎに、運動部の顧問の先生ならもう来ておられるかもしれないと思い、学校に電話しましたが、まだ留守電のままでした。途方に暮れましたが、お父さんの知り合いの知り合いに祐太朗の学校の先生がいたのを思い出したので、朝早くに迷惑とは思ったけれども、事情をお話しして先生の電話番号を聞き、やっとその先生から学校へ連絡を取ってもらうことができました。

 しばらくしてからその先生から電話がありました。お父さんが出ました。

 先生「岸くんがやばい状況です」

 お父さん「やばいってどういうことですか」

 私「死んでるなら死んでるって言って下さい」

 先生「放送室で、首をつって……」

 お父さんの声は絶叫となりました。もう、何を言っているのか分かりません。とにかく弟(当時小学6年生)を連れて学校へ向かうことにしました。お父さんと私の職場、弟の学校には「事故で重体」ということにして連絡し、3人で電車に乗り込みました。途中で学校周辺担当の警察からお父さんの携帯に

 「亡くなられていますので、警察の方に来てください」

と連絡がありました。お父さんは「きれいな体で亡くなっていましたか?」と、泣きながら聞いていました。ちょうど通勤時間帯で、電車の中には大勢の人がいましたが、会話の内容を察してくれたのか、通話をとがめる人はいませんでした。

 覚悟はしていましたが、望みの糸は断ち切られました。駅には警察の車が迎えに来ていました。警察署に到着してすぐに遺体と対面できるのかと思いましたが、通されたのは取調室のような部屋でした。弟は私たちから離され、別の部屋に連れて行かれました。

 そこで、柔道着の帯で首をつったと説明を受け、その後いろいろ聞かれました。いじめはあったかとか、何か悩んでいたかとかです。たまたま前の日に成績や進級についての悩みを聞いていたので、そのことを話しました。あとから思い出してみたらそれ以外のこともいくつか彼は話していたのですが、そのときは、気が動転してしまっていて、そのことしか思い浮かびませんでした。

 お父さんも、私も、とても感情的になって話をしていたと思います。その内容を警察の人は機械的にパソコンへ打ち込んでいきました。そして、プリントアウトしたものを

 「これでいいですね。確認して下さい」

と見せられ、確認しました。

 その後、遺体の確認まで少し待ち時間があったので、職場や弟の学校に、「事故で重体ではなく、自殺で死亡した」と連絡しなおしました。次に、祐太朗を一番かわいがってくれていたおばあちゃんがテレビで知る前に、このことを伝えなければいけないと思いました。

 私「おばあちゃん、心を落ち着けて聞いてね……。祐太朗、死んでん」

 おばあちゃん「えっ……」

 私「学校でな、首つって死んでん……。テレビで知る前に知らせないと、と思って……」

 つらい連絡でした。その後のおばあちゃんは号泣してもう言葉になりませんでした。少し前に病気をしていたので、電話口で倒れてしまわないか、そればかりを心配しました。とりあえず祐太朗のおじさん(私の弟)の車でいっしょに家まで来てもらうように言い、電話を切った後、おじさんにもつらい連絡をしないとなりませんでした。

 しばらくしてから警察の人が呼びに来て、いったん外に出て、小さな倉庫のような所に案内されました。そこに祐太朗はいました。よく、亡くなった人を、「変わり果てた姿」と言いますが、まさにその通りでした。まるで鬼の形相のようでした。彼の姿を見たお父さんは腰が抜けたようにその場に座り込んで大声を上げて泣きました。私は、子供の最期の姿をよく見ておこうと気を張っていたせいか、涙は出ませんでした。祐太朗はこれから大学病院に運ばれて、くわしい死因や死亡時間を調べるために解剖されるとのことでした。決まりなのでしかたがありません。私は警察の人にお願いしました。

 「目も、口も、閉じさせてきれいにして返してください」

 「変わり果てた姿」の祐太朗との再会の後、私たち3人は警察の車に再び乗り込みました。遺書など自殺の理由の手がかりになる物が残っていないか家宅捜索するために自宅へ向かうためです。警察署の表玄関にはもうマスコミの人がたくさん来ているとのことで、裏口から出て、家へ向かいました。

 警察の人といっしょに家の中をくまなく探しましたが、結局遺書などは見つかりませんでした。彼の書いていたブログにもそのようなことは書いてませんでした。

 警察の人が帰ってから、祐太朗の高校の校長先生から電話がありました。記者会見を開くので、よろしいですねといった内容でした。お父さんが、記者会見より、家に来て何があったか説明するのが先ではないのかと激しく怒りました。結局、記者会見は行われたようでした。当日、テレビは恐ろしくて見ることができませんでしたが、インターネットでのニュースは何とか見られたので、その内容を知ることができました。自宅にもマスコミの人がやって来るかと怖かったのですが、それはありませんでした。

 そうこうしている間に、おばあちゃんとおじさん夫婦が来ました。お寺や葬儀会社の手配、彼の死をまだ知らせていない人に連絡したりしているうちに、夕方になりました。

 午後5時半過ぎに、ようやく祐太朗の高校の先生たちがおわびにやって来ました。昨日、学校で何があったのか先生に問いただし、勝手に開いた記者会見のことや、昨夜学校内を探してもらえなかったことなどの怒りをぶつけました。

 夜になって、降り出した雨がはげしくなりました。玄関のインターホンがなるので、マスコミかとおそるおそる出て行くと、小学校時代からの友人のSくんをはじめとした中学校の時の同級生が7、8人、傘を手に立っていました。

 「ニュースを見て、みんなで来たんです」

 どうやら遺体が家に帰ってきていると思って、会いに来てくれたようです。

 「ありがとう、ありがとう」

 思わず彼らに言ってしまいました。

 せっかく来てくれたのだからと、上がってもらうことにしました。急きょ、近くのスーパーでジュースやスナック菓子を買ってきました。彼らとは祐太朗の思い出話で盛り上がりました。中には私たちが知らなくて、もしバレていたらどなりつけたような話、思わず笑ってしまうような話もあり、気持ちがなごみましたが、主役のいないパーティーにふと寂しさを感じました。

 「ぬれせんべい、みんなに食べてもらおうや」

 お父さんがいいました。

 『銚子電鉄 ぬれせんべい』。鉄道ファンであった祐太朗は銚子電鉄の存続を願って購入していました。注文してから3カ月待ち、祐太朗の死の2日前にようやく届きました。喜んで写真まで撮って、すぐに食べるのはもったいないと置いていた物です。食べずに彼は死んでしまいました。友達に食べてもらうなら、祐太朗も怒らないだろう。そう思いました。

 彼らは午後10時前までいてくれました。祐太朗からちょくちょくは聞いていましたが、彼にはこんな良い友人たちがいたのだと、あらためて思いました。

 長い長い1日が終わりました。ベッドに横になると、張りつめていた気がゆるみました。涙と、もう祐太朗はいないんだという感情とが同時にあふれてきて、ねむることができませんでした。

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