偉大なる開拓者  安積疏水の歴史   令和6年1月28日

天候(曇り)                                   郡山市「開成館」



安積平野(現 郡山市)

 郡山市は昭和30年頃は私が知る限り
沼地や藪の土地が多く道路は殆どが砂利道でした

安積疏水も今のように堰堤や土管・U字溝が施設されている所はなく!
土手で流れを作られているために雨による崩れや漏水が多かったと思います

それから40数年が経ち現在の様な安積疏水が出来たと思う
疏水の歴史を辿る為に!開成館へ行きました




 

開成館                         被災(現在入館禁止)

安積地方は年間雨量1200mmに満たない荒涼とした原野で
水源に乏しく発展が進まず 水利開発の願望される土地であった

明治6年福島県の奨めにより二本松藩士が入植するとともに
地元商業資本による開成社が設立され池かため池を造り開墾が進められた




 

復元された入植者宅                      縄筵の敷物

数年にして200ha余りの開墾が実現し入植者による桑野村が誕生した
明治天皇の御巡幸に先立ち 明治9年郡山を訪れた内務仰「大久保利通」は
この開墾を目の当たりにし 福島県典事中条正恒の請願に大いに心を動かした

当時の政府は 廃藩置県により失業した士族の相次ぐ反乱の鎮圧と
困窮する士族の救済に迫られていたのである

このようなことから士族の入植者としてこの地が選ばれ
九州久留米藩士を始めとする全国9藩士500戸2000人を入植させるためにも
郡山西方25kmに位置する猪苗代湖の水利用をはかる猪苗代湖疏水事業の完成が急がれた




 

安積地方の図面                           荒涼とした土地

この事業は阿賀野川を流れる日本海に注ぐ猪苗代湖の水を
奥羽山脈にトンネルを掘削し 郡山盆地まで導水する一大事業であった




 

技師ファン・ドールン                      現在の安積疏水

明治211年オランダ人技師ファン・ドールンを現地に派遣し
猪苗代湖からの安積野原野一帯の調査を行った

政府は彼らに 古来湖を利用している会津地方の戸ノ口堰・布藤堰の用水に
支障なく 安積地方へのかんがい用水を確保する
猪苗代湖疏水事業計画の指導を仰いだのである




 

入植者住宅案内                           室内の様子

明治12年 国直轄の農業水利事業第1号地区として着工され
日本海への流量を調整し猪苗代湖の水位を保持する十六橋水門や安積地方へ
取水する山潟水門が建設され 隧道 架桶等・延85万人の量力と
総工費40万7千円によって130kmに及ぶ水路工事が僅か3年で完成した





 

猪苗代から流れる滑滝                    沼上発電所

明治31年 水路の落差を利用した水力発電に利用されるように成り
現在も沼上・竹ノ内・丸守ノ3発電所に強要されている

当時としては極めて難しかった長距離の特別高圧送電に成功し
沼上発電所はその草分けとなった

この安い電気を求めて 紡績会社等が続々と誕生し
興業や商業も盛んになり郡山は急激に発展した




 

葉山を流れる疏水                         開拓者の群像

明治41年疏水の一部が水道用水に供給されることになり
一時は工業用水にも利用され 今日の繁栄の基礎が築かれた

このようにして安積疏水は 荒野を美田に一変させると共に電力に利用され
都市用水を供給するなど地域経済発展の原動力となり
郡山は一世紀余にして33万人を有する東北の中核都市に発展した





 

入植者の復元住宅                     開成館広場

昭和45年から57年にかけて国営水利事業が実施され
調整池が新設されると共に施設の近代化や集中管理体制が整備された

また 平成20年頃に完工した国営新安積農業水利事業により
小水力発電が造られ組合員の負担減に大きく貢献している

猪苗代湖疏水事業以来5度の国営事業とそれら関連事業により
安積疏水の施設は面目を一新し現在に至っている。

上記は安積疏水改良区のHPより抜粋致しました

歴史資料館で詳細を知り
偉大なる開拓者の工事など等に敬意を表したいと思いました







動画をごらんくださいね!


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