平成26年6月7~8日
天候(雨~曇り~晴れ) 松本城~善光寺~焼道跡観音堂~鬼押出し 研修旅行
信州の旅(松本城) |
アルプスの山々へは何度も足を運んでるが! 松本城には行ったことがなかった 「石川氏は豊臣秀吉の信頼の厚い武将でした。秀吉の大坂城は黒で統一されていました。松本城が黒いのは、 石川氏の秀吉への忠誠のしるしと思われます。また、松本城は戦国末期、鉄砲戦を想定した戦うための 漆黒の天守の典型として、現存する唯一の城です」 上記は松本市HPより抜粋 磨き上げられた松本城の床! 急な階段を上り天守最上階まで行ってきました バスの旅のために体内に蓄積されたアルコールが悪さして息が上がる・・・笑 鎧姿の武将と記念写真を撮る。。。 お城の出口には武将が居ます 今にも大刀を抜き戦う勢いに圧倒されてしまう しかし無言であるが寄り添い、快く記念写真に収まってくれた 此処は昼食を頂いた信州名物「蔵元三年味噌」です 大きな味噌樽の在る由緒ある食事処でした シンプルなお膳は・・・ (押し寿司・味噌焼きお握り・野沢菜おやき・焼豆腐・味噌漬け・味噌アイス)です 信州三年味噌 信州の味噌蔵 石井味噌の絶品豚汁を頂きました 味噌の繊細な味を落ち着いた雰囲気の中で食べる大人のコースです・・・笑 信州の旅は続く・・・Sei |
信州の旅(善光寺) |
「牛に引かれて善光寺参り」は有名なお言葉ですね! 「善光寺の御本尊様は、一光三尊阿弥陀如来像です。中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、 左側に勢至菩薩が一つの光背の中にお立ちになっています。しかし、御本尊様は絶対秘仏で、 今日そのお姿を拝むことはできません。 『善光寺縁起』によれば、善光寺如来様は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現なさったと いわれております。その後、百済にお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、日本に仏教が 伝来した時に、百済より贈られたと語られています」 善光寺HPより抜粋いたしました 牛の置物がありましたが・・・? なぜかシマシマのうしでした・・・笑 善光寺境内 「山門(三門)重要文化財 寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門です。屋根は大正年間の葺き替え時に 檜皮葺きとなりましたが、平成十四年から十九年にかけて行われた平成大修理において、 建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されました。 楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。 これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されています。 更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の 信仰を如実に物語っています。」 善光寺HPより抜粋しました 牛に引かれて善光寺参り 初めての参拝で神妙な面持ちのSei・・・笑 漆黒の闇の回廊で極楽浄土を願う「善光寺お戒壇巡り 「信州長野にある善光寺は、7年に1度の前立本尊の御開帳があることでも 知られていますね。 その善光寺本堂の床下には、一筋の光も入ることのない暗闇の中を巡る回廊があります。 回廊の中ほどにあるご本尊の下にかかる極楽の錠前に触れば、極楽浄土が約束されるとか。 ならばと、来世の御利益を願うべくお戒壇巡りにチャレンジです。 」 善光寺HPより 回廊は真っ暗で手探りで進みます 壁つたいに進むと出口手前にカシャカシャと触ると音がする錠前が在り・・・ お~~ これだ と 念入りに触り極楽浄土を願って来ました。 初めての善光寺参りです 善光寺は、誰でもお参りできる無宗派の単立寺院で、年間を通じ多くの参拝者で賑わっています。 ぜひ一度は行ってみたいお寺さまですね! |
上州の旅(浅間 焼道観音堂) |
浅間山噴火と観音堂1783年(天明3年)7月8日(旧暦)、火口より北側約12Kmにある鎌原村は、浅間山の大噴火(いわゆる天明の大噴火)による土石流[注釈 1]に襲われ壊滅。このとき鎌原村の村外にいた者や、土石流に気付いて階段を上り観音堂まで避難できた者、合計93名のみが助かった。この災害では、当時の村の人口570名のうち、477名もの人命が失われた[1]。 現在、地上部分にある石段は15段であるが、村の言い伝えではかつてはもっと長いものだったとされていた。1979年(昭和54年)に観音堂周辺の発掘調査がおこなわれた結果、石段は全体で50段あったことが判明し、土石流は35段分もの高さ(約6.5メートル)に達する大規模なものであった事がわかった。また、埋没した石段の最下部で女性2名の遺体が発見された(遺体はほとんど白骨化していたが、髪の毛や一部の皮膚などが残っていて、一部はミイラ化していた)。若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹、母親と嫁など、近親者であると考えられている。浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に映している。 また、天明3年の浅間山の噴火で流出した土石流や火砕流は、鎌原村の北側を流れる吾妻川に流れ込み、吾妻川を一旦堰き止めてから決壊。大洪水を引き起こしながら、吾妻川沿いの村々を押し流し、被害は利根川沿いの村々にも及んだ。この一連の災害によって、1,490名の人命が奪われる大惨事に及んだ[2]。また、当時鎌原村にあった「延命寺(えんめいじ)」の石標や、隣村(小宿村=現在の長野原町大字大桑字小宿)にあった「常林寺(じょうりんじ)」の梵鐘が、嬬恋村から約20km下流の東吾妻町の吾妻川の河原から約120年後に発見された。 村がまるごと飲み込まれたことから、東洋のポンペイとも呼ばれ、発掘による出土品や当時の様子、絵図などが観音堂に隣接した嬬恋郷土資料館に展示してある。 多くの火山災害の被災地では、生き残った住民が避難した先(場所)で新しい町を再建したが、鎌原は、生き残った住民が同じ場所に戻って、村を再建した非常に珍しい例である。 現在、火山災害から命を救った観音堂は厄除け信仰の対象となっており、地元鎌原地区の観音堂保存会の人々が交替でお堂に詰めて、先祖の供養を1日も欠かすことなくおこなっている。観音堂を訪ねると保存会の方から昔語りの話を聞くこともできる。 本尊は十一面観音菩薩。 嬬恋郷土資料館HPより抜粋いたしました。 *** かんのんさま *** *** 橋の下に続く石段 *** *** 残った石段 *** *** 石段を掘り起こしたときの様子 *** 当時の生々しい様子を聞きながら観音堂へ参拝に訪れる! 此処の観音堂の場所は何度も通った道でありながら立ち寄ったことがなかった 噴火の様子や部落民の苦悩そして歴史を教えていただき 噴火の甚大な被害を知ることが出来ました。。。 |
上州の旅(鬼押出し園) |
鬼押出しの溶岩庭園を散策いたしました 浅間山北麓に最大幅2km、長さ5.5kmにわたって黒々と広がる景観の奇勝。鬼押出しの溶岩群の中を歩いて見学できる。間近に見る巨大な溶岩は迫力満点。中央の高台には東京上野にある東叡山寛永寺別院浅間山観音堂が立ち、ここから鬼押出しや浅間山はもちろん、浅間高原から白根山に至る大パノラマが楽しめる。惣門→表参道→観音堂→裏参道の標準コースは徒歩30分。 *** 奥に見えるのは浅間山観音堂 *** *** イワカガミ *** 園内にはウラジロヨウラクやイワカガミ・ドウダンツツジ等々が咲いてます *** 集合写真を撮り信州~上州の旅が終わった *** 6月7~8日は大雨の予報でした しかし初日の東北道では雨にあったが長野県に入ると 雨が上がり青空ものぞく素晴らしい天候となる・・・ 松本城~善光寺と初めての地で、今までにない展開を楽しめました 二日目は白根山へ行く予定も災害復旧工事で通行止め。 一番楽しみにしてたトレッキングコースが消滅です・・・苦笑 それでも焼道跡の観音堂や鬼押出し園など歴史に触れることができ! 年に一度の職場の研修旅行を楽しく過ごす 次年度の旅を之から一年間かけて計画するのも楽しみだ Sei |
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